火曜日, 5月 02, 2006

 

「悪法も法」と民主主義

ソクラテスの弁明
 「悪法も法なり」。この言葉は、形式的に「どんな法でも、法は守らなければならない」というところだけがクローズアップされ、批評されやすい言葉である。

 しかし、この言葉は、本来、アテネの哲学者ソクラテスの魂の叫びである。

 ソクラテスは、民主主義を愛するからこそ、自らを告発する不当な裁判においても、おそれることなく、こびることなく自説を展開する。どのような刑が妥当と考えるか、自分の意見を述べるときにも「自分にふさわしいのは迎賓館」と、小気味よく言い放つ(ソクラテスの弁明)。

 そして、有罪・死刑が決まった後も、その信念に基づいて、死を受け入れる。 「自分はこれまでアテネの法を信じ、アテネの法に守られて生きてきた。その法が自分にとって都合が悪いからと言って逃亡するということは、自分に都合の良いときだけ利用して都合が悪くなると逃げるという意味で卑怯だ。そして、そのようなことが正当化されるなら、結局、法制度そのものを崩壊させることになる。自分は、アテネの民主主義を愛するから、その崩壊を導くことは出来ない。」これが、「悪法も法なり」の本当の意味である(クリトン、パイドン)。 「悪法も法」を批判することは簡単である。

 しかし、民主主義社会では、その「悪法」を作った責任者は、国民1人1人なのである。日本における「政治的無関心」「低い投票率」「ワイドショー政治」そういった中で平然としている人たちが、「悪法」に抗議することはできるのだろうか?国民1人1人の成熟が必要ではないか? 現代でも、ソクラテスの著書を読む価値は十分にあると思う。

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